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聴覚障害の家族に育てられた耳の聞こえる子どもを「コーダ」といいます。
コーダ あいのうたを、遅ればせながら観ました。
アカデミーでいくつかの賞に輝いた映画なので、ご存じの方も多いでしょう。いい映画でした。
コーダである女の子は、両親と兄の通訳であり、家業の漁業を手伝っています。彼女の歌の才能を見いだした学校の先生は、名門の音楽の大学への進学を進めますが、家業が手伝えなくなるからと両親は反対。けれど兄だけは「自分の道を進め」と後押ししてくれます。
この映画は、観る人によって解釈がいろいろでしょうね。
聾者であることを卑下することなく堂々と生きている両親は、ユーモアの持ち主でもあり、笑える場面がいくつもあります。この手の映画は、どうしてもシリアスになりがちで、笑いの要素が少ないのですが、「コーダ あいのうた」は、ユーモアあり、笑いあり、タブーにされがちな性の話も出てきます。そして手話の豊かな表現を見ることができます。
家族の通訳をしながら家業を手伝い学校に通っている女の子の立場で見ると、ヤングケアラーであり、きょうだい児の生き方の映画と観ることもできます。
私自身、きょうだい児なので、「ヤングケアラー」「きょうだい児」の映画として興味深く観ました。
そして、前々から感じていた「ヤングケアラー」「きょうだい児」の定義はあるようでない、という思いを強くしました。
娘が、親元を離れて音楽大学に進むことを反対する両親の言い分は「家業が手伝えなくなるから」です。これを「家族の犠牲」とみるか「家族と共に生きる」とみるかは、微妙なところです。
「ヤングケアラー」「きょうだい児」を家族の犠牲になっている可哀想な子という見方をしてしまうことへの違和感が、この映画で払拭された気がします。
ヤングケアラーやきょうだい児などの言葉が生まれると、定義づけの物差しができてしまいます。その物差しに当てはまらない人もたくさんいるんですよね。
そもそも、障害のある側が、ない側を「犠牲」にしているという見方から考え直したほうがいいように思います。家庭環境は、一つとして同じではなく、家族を支えながら生きるのも一つの生き方です。支え方にも限度があるわけで一概には言えません。でも極端な例ばかりもち出してきて「家族の犠牲者」として語ってしまうと、間違えてしまう気がしています。
トビラコ店主
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