先を照らす人の話 

自閉症児と東日本大震災  

—「心のケアは早めに」。自閉症児のお母さんから聞いた、被災して知った大切なこと—
 
2011年3月11日に発生した東日本大震災。急激な変化に弱い自閉症児者にもたらした衝撃ははかりしれません。
 
震災から数年経ても、なお大震災の「後遺症」でパニックを起こす自閉症の子どもたちがいることをご存知でしょうか。
 
言葉にできないストレスが溜まりに溜まって、ある日突然、暴力や奇声となって爆発しました。爆発の時期は、子どもによって違います。震災から1週間後の子もいれば、半年後、3年後の子もいたそうです。フラッシュバックが長く続いた子もいます。

 
宮城県気仙沼市本吉町にお住まいの小野寺明美さんは、自閉症のお子さんの母親です。本吉町は、リアス式海岸に沿った地区。東日本大震災で高さ約20mもの津波に襲われ、多くの命が犠牲になりました。津波に丸ごと飲み込まれてしまった集落もあります。
 

小野寺さんの長男の健(けん)さん(震災当時17歳)は発達障害、次男の凌(りょう)さん(同 15歳)は重度の知的障害をともなう自閉症です。
 

緻密な絵を描く長男の健さん。「震災時はスケッチブックが健の避難所になりました」と話す小野寺さん。健さんの絵は岩手県一関市さくらなみき自閉症美術館に「おにいちゃんの絵」として原本が展示されています。題字は、凌さん。

 
いつもおだやかでニコニコしていた凌さんは、震災の衝撃で様子が一変しました。
 
暴力を振るうようになり、処方された薬は効果がなく、むしろエスカレートしていきました。途方にくれた小野寺さんですが、北九州から応援にかけつけてくれた医師の診察を受けることができました。そうして凌さんは、ようやく落ち着きを取り戻すことができたのです。

以来、小野寺さんは震災時における障害のある子の心のケアの重要性を訴え続けています。小野寺さんにお話をお聞きしました。

 


凌さん。手にしているのは、お気に入りのアプリ指電話。iPadで使うコミュニケーションツールです。一般社団法人結ライフコミュニケーション研究所の高橋宣盟(よしあき)さんが作成したアプリ。「高橋さんと凌は何度も会っていて、彼にとってとても大切な方」(小野寺さん)。写真提供=小野寺さん

 

児相が介入し、支援学校から入所施設へ

 

—東日本大震災が発生した時、ご家族はどちらにいらっしゃいましたか?
 
小野寺: 私は自宅から33km離れた、唐桑町(からくわちょう)の身体障害者施設で支援員として働いていました。
 
次男の凌は気仙沼の支援学校に通っていましたが、その日に迎えに行くことはできず、凌は支援学校で、私は施設で一晩過ごしました。
 
地震が発生したとき、凌はスクールバスに乗って帰宅するところでした。バスは海に近い市街地へ向かっていましたが、校長先生のとっさの判断で、3台のスクールバスは高台の学校に戻り、全員無事でした
 
あのときは、海のほうから帰宅する子たちの中に犠牲もでました。

 

—長男の健さんはどうされていましたか?
 
小野寺:自宅から50km離れた一関市(岩手県)の高等学校にいましたが、学校の事務長さんが、停電の中、自宅まで送ってくれました。
 
自宅には88歳(当時)になる父がいて、父と健は軽トラックの中で一晩中、飲まず食わずで過ごしました。

 

―自宅には入れなかったのですね。
 
小野寺: 倒壊のおそれや頻繁におこる地震のため、車の中に避難していました。
自宅は半壊判定となりましたが、住み続けることはできました。ただ、避難所にいないと被災者として扱われずに食糧の配給などはありませんでした。

 
―お子さんたちの様子はいかがでしたか?
 
小野寺: 凌が大変でした。通っていた支援学校が再開されたのは震災から1か月後。といっても、午前中だけ。私がフルタイムで働いているため、通わせることができません。その頃、水はきておらず、仕事から帰ってくると水をもらいにいかなければならない生活でした。
 
そこで寄宿舎のある岩手県の支援学校に入れてもらえるように(宮城)県に相談しました。わが家は岩手との県境にありますので、その方がいいと思いました。
 
ところが、なぜか突然、宮城県の児童相談所(児相)が介入して、仙台の福祉型施設に入所する「措置」がとられてしまいました。

 

―施設に入所ということは家に帰れないわけですね。

小野寺: はい。
 

2020年10月、ここに南三陸町震災復興祈念公園が建設された。(2014年撮影)

 

入所した日、窓ガラスを叩いたからと薬を処方される
 

―学校へは通うことができたのですか?
 
小野寺: はい。施設の隣に支援学校が併設されていましたので。でも、環境の変化に戸惑っていたのだと思います。登校初日から施設や学校の窓ガラスを激しく叩くようになってしまいました。そのため、施設の判断で精神科を受診させられ、薬が処方されました。薬は2種類。抗パーキンソン薬のタスモリン1mgと抗精神薬レモナミン1mgです。
 

―凌さんは、それまで薬を服用していたのですか?
 
小野寺: いいえ。初めてです。
薬をのみはじめて、5日目に、左半身が麻痺し、顔が歪み、口が曲がってよだれが出るようになってしまいました。薬の服用は中止されました。
 
児相に「息子を引き取りたい」と申し出ました。でも、すぐには聞き入れてもらえませんでした。施設入所は児童相談所が決めた「措置」だからだそうです。「今、息子さんが家に帰っても大変です」と児相の人に言われました。結局、帰宅できたのは、1学期の終業式が終わってからです。

 

—帰宅した凌さんの様子はどうしたか?
 
小野寺: 笑顔が消えた! と最初に感じました。震災前までは、おだやかでニコニコしている子だったのです。ところが、暴れたり、モノを壊したり、暴力をふるったりするようになってしまいました。
 
帰宅して気仙沼の支援学校に戻りましたが、学校でも暴れるので、今度は別の抗精神薬を投与されました。でも薬の効果はなく、逆に暴れるのが常態となってしまい、「問題児」として扱われるようになりました。
 
ほんとに大変でした。こだわりも強くなって、出がけに玄関で靴を何度も直したり、学校では教室につくまでに曲がっているものを直したり。教室にたどりつくのが給食間際になってしまうことが何か月も続きました。
 
帰りのスクールバスに乗る時間にも間に合わずに、タクシーを使ったり、私が車で迎えに行ったりしました。車の中でも凌は落ち着かず、車から飛び降りたり、高速道路を運転している私の首を後ろからしめたりしたこともあります。
 

復興がまだ進んでいない本吉町。(2014年撮影)

 

必要なのは薬ではなく、心のケア
 

―いつごろまで、その状態が続いたのですか?
 
小野寺: 震災後5年くらい続きました。
 
―おさまったきっかけは?
 
小野寺: 日本医師会が(岩手県)陸前高田にトレーラーハウスを建てて、「子どもの心のケア」を行なっているとの情報を得て、凌を診療していただいたのです。診察してくれたのは、北九州から応援にきてくれた医師です。医師からは彼にとって薬は効果がなく、反対にリスクでしかないと言われました。
 
薬はラクになるものではなく、彼を追い込んでしまうものだったのです。彼がしたくないことも、薬が脳に命令していたそうです。つらかったと思います。
 
診察後、すぐに薬をやめて、「認知行動療法」に切り替わりました。認知行動療法は心をラクにする心理療法です。凌の話を私から医師が聴くことが中心となる治療でした。凌はなぜか、そこへ行くと落ち着いていました。

 
―どのような変化があらわれましたか?
 
小野寺: 治療初日は、目がつりあがり、どこにでも唾を吐いていましたが、治療が終わると、唾を吐かなくなり、顔つきもおだやかになりました。その後、治療は、月1回、診療所が閉鎖になるまで3年半続きました。3年半を経て、徐々に落ち着くようになりました。あの治療がなければ、凌はずっと薬をのみ続けていたかもしれません。
 
でも治療が終わってもフラッシュバックは、2020年まで続いていました。
 

最小気仙沼市本吉町川原付近。(2014年撮影)

 

—震災時の自閉症児者の心のケアはあまり知られていませんね
 
小野寺: そうなんです。息子は、たまたま診てもらうことができましたが、私のまわりのほとんどの子が診てもらえていません。自閉症の子たちは、早い段階での心のケアがとても大切だと痛感しました。
 
震災で水洗トイレが使えなくなったことがきっかけで毎日失禁するようになった子がいます。いまでも失禁が続いているお子さんがいると聞いています。
 
早期の心のケアがないと、ある日突然、様子が変わることがあります。震災から半年後、あるいは3年以上経ってから暴れるようになった例もあります。狭く壁の薄い仮設住宅で我慢を強いられる生活も要因でしょう。突然、笑顔が消え、暴れてモノを壊し、母親に頭突きをし、髪を引っ張ったり。でも、お母さんたちはじっと耐えて、自分さえ我慢すればいいと思ってきました。
 

障害のある子を地域で支える場が必要

 
—親の居場所も必要ですよね。
 
小野寺: はい。子どもが奇声をあげたり、走り回ったりしたため、周囲に遠慮して避難所にいられずに、1日中散歩していた親子がいました。みんなイライラしているから、母親が怒鳴られたり。自閉症の子は見た目では障害があるように見えません。ですから、母親がちゃんと子どもを見ていないと思われてしまいます。ほんとに、みんな苦労しました。
 
母親たちが集まって語り、泣き、笑える場が絶対に必要だと感じました。そこで、地元で30年活動してきた親の会を解散し、震災後、準備期間を経て2013年1月、「本吉絆つながりたい」としてスタートさせました。
 

「本吉絆つながりたい」のメンバー。本吉総合体育館の前で。写真提供=小野寺さん

 
―それまでの親の会とどこが違うのですか?
 
小野寺: 障害のある子と親を地域で支えることのできる場づくりを目指しています。障害のある子は地域と関わる機会がほとんどありません。特に支援学校の子どもたちはバス通学がほとんどで、学校と家の往復ですからね。地域のつながりの大切さを、震災でつくづく感じました。
 
地域の協力者や外部の協力者を得て、2014年には2月には、一時預かり所「ほっぷ」をスタートさせました。重度の障害のある子の親は、子どもを置いて出かけることができません、一時預かり所があれば安心して出かけられるようになります。
 
将来的には、重度障害者の生活の場となる生活介護施設「すてっぷ」を、親なき後も子どもが安心して暮らせる入所施設かグループホームを作りたいと思っているのですが、なかなか現実のものとなっていません。私の力不足を痛感します。どなたか、お力を貸していただければと願っております。
 

―障害のある人が、地域で共に暮らすことは、これからの社会の大きなテーマでもありますよね。本日はありがとうございました。
 

「本吉絆つながりたい」が協力している『発達障がい児者受け入れのてびき』(公益財団法人 世界宗教者平和会議=WCRP/RfP 日本委員会 制作・発行)。宗派に関係なく、さまざまな宗教施設で災害時に発達障害児者を受け入れるためのマニュアル。「WCRPの婦人部会の方々が作ってくださいました」(小野寺さん)

 

写真/平野佳代子 取材・文・構成/tobiraco編集室

本吉絆つながりたい事務局
教えてくれた人 小野寺明美さん

おのでら あけみ

宮城県気気仙沼市本吉町在住。「本吉絆つながりたい」事務局。発達障害の長男、知的障害を伴う自閉症の次男の母。東日本大震災を機に、30年間活動していた「知的障害児の親の会」を「本吉絆つながりたい」として刷新。障害のある子と親の会を旧本吉の育成会メンバーと立ち上げた。講演活動などを通して、障害のある子に必要な配慮について発信している。

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